西東京稲門会・散策の会 例会報告 

2018年10月    武相荘・薬師池公園 

 

1023 )  曇り 時々 小雨

 

    今回の参加者は19名と近来まれに見る大人数となった。

家を出る頃細かな雨が降り始めた。一時本格的な雨になったが、やがて薄日が差してくるなど天気は目まぐるしく変化した。10時51分に小田急線の鶴川駅に下車したときにはまた小雨が降っていた。

 

    北口を出て東へ300mほど行き、鶴川駅東口の交差点を左折して鶴川街道を北へ向かう。10年ほど前は何もない道であったが、ラーメン店、カレー屋、カフェ、ユニクロなどの店が出来ていて、大分様子が変わっていた。

 

    ゆるやかな登り坂の道を20分ほど歩いて武相荘に着いた。武相荘は故白洲次郎・正子夫妻が戦前に農家を購入したもので、二人は生涯をここで過ごした。周りがどんどん都市化してゆくなかで、武相荘だけは昔のまま茅葺き屋根の母屋・納屋など多摩の古民家の姿を残している。旧白洲邸の全域が2001年に一般公開され、次郎・正子の書斎や家族の居間、家具や持ち物、正子の蒐集した骨董品などが展示されている。

 

   武相荘・門

奥が母屋、手前がレストラン

 

    門を入ってすぐ右手が小さなレストランである。我々は人数が多いので14名で席を予約していたが、実際に行ったのは19名。1名は外の店に行ったが、幸い18名は席を確保することが出来て、海老カレーライスなどを食べた。

 

    食事が終わってから母屋などを見学した。ソファやテーブル、本棚にぎっしり詰まった書物、陶器、薬箪笥、薬研、着物や座布団など次郎・正子夫妻が住んでいた当時そのままに展示されていて、我々の幼いころの暮らしぶりを思い出して懐かしかった。

特に興味深かったのは、半紙1枚に「葬式無用 戒名不用」と書かれた遺言と、1951年に行われた日本と連合国との講和条約締結の時に、吉田茂首席全権が行った受諾演説の原稿である。受諾演説は英語で行う予定で準備されていたが、直前に日本語で行われることになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な巻物式の原稿は現地のメディアから「トイレットペーパー」と言われた。その原稿が展示されている。室内は撮影禁止。

  

    母屋の裏に小さな丘があり竹林になっている。その中に散策路が作られていて、その入り口には「鈴鹿峠」と書かれた石の道標が立っている。

門の前のカフェには次郎の愛車「PAIGE」が展示してある。旧制中学の頃からオートバイを乗り回していたようで、カーマニアであったようだ。

 

     母屋      散策路  次郎の愛車 PAIGE

 

    鶴川駅に戻り、町田行きのバスで約15分、薬師ヶ丘バス停で下車した。横断歩道を渡れば薬師池公園の北側の入口である。薬師池はかつて「福王寺池」とも呼ばれ、天正5年(1577)に北条氏照の印判状により武藤半六郎が水田用水池として開拓した。薬師池を中心にハス田、梅林、椿園、しょうぶ田などがあり、新緑や紅葉も楽しめる花の公園である。1982年に「新東京百景」、1998年には「東京都指定名勝」に指定され、さらに2007年に「日本の歴史公園100選」にも選定された。また江戸時代の古民家「旧永井家住宅」と「旧荻野家住宅」も保存・展示されている。モミジやイチョウは色づき始め、ガマズミの小さな実が真っ赤に色づいていた。あとひと月もすれば紅葉の真っ盛りとなることだろう。

 

     ハス田

     薬師池

 旧荻野家住宅(医院)

タイコ橋と黄色くなった銀杏

  紅葉をはじめたモミジ

 真っ赤なガマズミの実

 

    薬師池公園の南側の出口から出て、薬師池バス停からバスで町田駅へ。4時前に町田駅で解散となった。

 

  

     2018年10月23日  薬師池公園にて 

 

松尾さんと志賀さんの俳句です。

 

武相荘 門の内外 柿の秋

古民家の 軒に枝触れ 柿日和

菊花展の 天幕白く 並びけり

ふるさとの 梢の柿は 禅寺丸              以上 松尾 良久

..

白洲邸 敷石埋めし 柿落葉

黄落や 小舟もやひし 太鼓橋

がまづみの 池畔に赤き 実のあまた          以上 志賀勉

 

 

参加者  奥野和雄、河合宏則、古賀良郎、小島恕雄夫妻、志賀勉、辻直邦、滑志田隆、

原田一彦、松尾良久、水野聰夫妻、水野博司、安井義彰夫妻、安村長生、

臼井静江、梶原松子、中村仁美  以上19名

 

写真と文 小島恕雄